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〔 1/43 〕 1950年代相模原市中央区田名のあたり。生糸の産地として知られた相模原で繭の収穫を喜ぶ農家の人たち。養蚕農家は1950年時点で2500戸を超えていた。 〔 2/43 〕 1950年代後半、戸塚区。戸塚の不動坂交差点。左は国道1号の旧道、右に線路をまたぐのは新道。<br>大磯の吉田茂が戸塚駅の踏切の渋滞にたまりかねて造らせたという「ワンマン道路」の逸話も。奥は横須賀線。 〔 3/43 〕 1951年6月。戦災から復興し活気を取り戻した川崎駅東口。手前は高架線になる前の京浜急行踏切。奥は県内初のトロリーバス。中央奥は市役所の時計塔。
〔 4/43 〕 1952年、港北区。日吉−元住吉間の丘陵を走る東急東横線の電車。当時はたったの3両。右側は日吉の街並み。線路の背後の丘が慶大キャンパス。 〔 5/43 〕 1952年、港北区。牛を使って代かきする農家の人たち。こんな風景が横浜にもあった。<br>【 ※ 代(しろ)かき:《農》苗代(ナワシロ)の田に水を入れて土をかきならすこと。「代掻き」とも表記 】 〔 6/43 〕 1952年、港北区。旅館や料亭が並ぶ綱島の温泉街。東急東横線の駅名は1926年から44年まで「綱島温泉」だった。 〔 7/43 〕 1952年。浅野中学・高校のある横浜・子安台から望む生麦方面。線路を走るのは京浜東北線の焦げ茶色の電車。同中高の創立者でもある実業家の浅野総一郎は海岸の埋め立てと工業化を推進した。 〔 8/43 〕 1952年。高島台から見る横浜駅付近。中央にホームの屋根が小さく見える。線路右側が西口。左の真っすぐな線路が東海道線で、手前に緩やかにカーブするのは東急東横線。右側の低い家並みは鶴屋町あたり。 〔 9/43 〕 1952年、神奈川区。高島台から見渡す横浜港。今はビルや高速道路ができ、海の眺めは過去のものに。手前は青木橋と京急線神奈川駅。 〔 10/43 〕 1952年。堂々としたたたずまいの横浜駅東口駅舎。1928年に完成し70年代末まで親しまれた。画面右上の道路は国道1号で、現在は首都高速横羽線の高架が覆いかぶさっている。 〔 11/43 〕 1953年3月。中国大陸からの帰国者を迎えるため高島桟橋を出航する白山丸と、見送りの人々。中国からの帰国者は京都・舞鶴に着き、引き揚げ列車で横浜へ向かった。 〔 12/43 〕 1953年3月30日。皇太子さま(現在の天皇陛下)を乗せて出航する米国のプレジデント・ウィルソン号。英国女王エリザベス2世の戴冠式に昭和天皇の名代として参列するため乗船された。 〔 13/43 〕 1954年4月。英国客船カロニア号(3万4172トン)の入港を出迎える人々。横浜港に豪華客船が訪れるのは20年ぶりで、5階建てのビルに相当する巨体を指して当時の本紙は「浮かぶホテル」と形容した。 〔 14/43 〕 1954年。小田原市の市制20周年記念で建設されつつある小田原城。明治初期に取り壊されて以来、90年ぶりに天守閣が復元された。構造は現代風の鉄筋コンクリート造り。 〔 15/43 〕 1955年、保土ヶ谷区。山あいの雰囲気に満ちた権太坂。坂の頂上あたりが武蔵国と相模国の境界で、境木の地名も残る。箱根駅伝の難所としても知られる。 〔 16/43 〕 1955年ごろ、川崎市。登戸の多摩川べりには貸しボートがあり、川面を埋めるほどの遊覧客が繰り出した。鉄橋は小田急小田原線。 〔 17/43 〕 1956年。現在の相鉄ジョイナスの前身、横浜駅名品街の開業間もないころ。同時期に高島屋とともに横浜駅西口の商業発展の基礎を築いた。映画館もあり画面左に看板が見える。 〔 18/43 〕 1956年、川崎市。老舗百貨店さいか屋川崎店の開店した年の姿。今年5月末閉店が決まっている。 〔 19/43 〕 1956年6月。整備されたばかりの横浜駅西口。散水車が未舗装の道に水をまいている。 〔 20/43 〕 1959年11月。買い物客でにぎわう横浜市鶴見区の佃野商店街。かっぽう着姿の女性に手を引かれた幼子、「古綿打直し」の看板・・・。 〔 21/43 〕 1960年8月、磯子区。オート三輪の荷台に乗って麦わら帽子をかぶり・・・。海水浴に向かう車で渋滞する国道16号。市内にも自然の浜辺があったころ。 〔 22/43 〕 1960年9月、相模湖町(現・相模原市緑区)。現在は津久井湖底に沈んだ沼本集落。右奥に見える沼本ダムのせきは現存する。 〔 23/43 〕 1960年9月、津久井町(現・相模原市緑区)付近。城山ダム建設に伴い、今は津久井湖の底に沈んだ荒川橋。 〔 24/43 〕 1960年。箱根有数の観光地、大涌谷付近に停車するバス。当時、西武系列と東急・小田急系列がバスやケーブルカー、遊覧船の輸送シェアを競い「箱根山戦争」と呼ばれた。 〔 25/43 〕 1962年8月。米国定期客船P・ルーズベルト号(1万8921トン)とフランス定期客船ラオス号(1万3212トン)が入港した大さん橋。前日入港した英国客船アルカディア号(2万9664トン)も停泊している。 〔 26/43 〕 1964年5月。埋め立てから間もない磯子の風景。この付近の根岸湾の埋め立ては1959年に始まり64年に完成。現在は工場群が立ち並び、上空を首都高速湾岸線が横切る。左側は開業したての国鉄根岸線磯子駅。 〔 27/43 〕 1964年10月8日。川崎市役所に到着した東京五輪聖火。時計塔が特徴の市役所本庁舎は1938年に建てられ今も健在。 〔 28/43 〕 1964年11月。横浜市金沢区の小柴海岸でノリを干す人たち。同区や磯子区ではノリの養殖が盛んだった。小柴には今も漁港がありシャコ漁で有名。 〔 29/43 〕 1965年4月27日大洋−阪神戦、川崎市。1951年開場の川崎球場。高橋ユニオンズ、大洋ホエールズ、ロッテオリオンズなどの本拠地。照明灯の明るさは他球場をしのいだ由。スタンドが撤去され川崎富士見球技場に名を変えた。 〔 30/43 〕 1965年9月。開店を間近に控えた鶴見駅ビル。民間企業なども出資した「民衆駅」の一つで「カミン」の名で親しまれたが、老朽化で2008年閉館。建て替えられ「シアル鶴見」として12年に開業した。 〔 31/43 〕 1966年。建設中の東名厚木インターチェンジ。周辺は広大な田園地帯だった。画面中央を横切るのが相模川で奥が海老名、右側が下流。インター完成で地の利を生かした工業団地や倉庫が林立するようになった。 〔 32/43 〕 1966年12月、戸塚駅西口。「戸塚駅」の表札が掲げられた小さな木造駅舎。今や橋上駅と地下駅に変身し、商店街の通りも再開発ビル「トツカーナ」などになり面影はない。 〔 33/43 〕 1968年7月、横須賀市。ベトナム戦争当時、夜のどぶ板通りを歩く米兵。 〔 34/43 〕 1968年7月。通勤通学客で混雑する朝の茅ヶ崎駅北口。今はビルになったが、当時はこぢんまりとした木造駅舎だった。 〔 35/43 〕 1969年、小田原市の江之浦漁港付近。神奈川の「あまちゃん」。獲物はサザエやアワビなど。小田原や真鶴にいた海女は徐々に数を減らし、現在は男性の素潜り漁に移り変わった。 〔 36/43 〕 1970年6月、港北区。東海道新幹線の開業から6年近くがたった新横浜駅近く。まだ田園や湿地帯が広がっていた。左の高架線が新幹線。 〔 37/43 〕 1971年8月。碁盤の目のように整然とした平塚の市街地。大戦末期、軍施設や軍需工場などがあったことから空襲を受けた。平塚駅(左下)は今は大きな駅ビルになった。 〔 38/43 〕 1973年12月。高島屋や岡田屋などの商業施設が並び、県内有数の繁華街に成長した横浜駅西口。左から2番目の建物は相鉄本社で、現在は横浜ベイシェラトンホテル&タワーズがそびえる。 〔 39/43 〕 1975年3月7日。英国のクイーン・エリザベス2世号(QE2、6万5863トン)。世界一周航海で大さん橋に初入港。当時世界最大の豪華客船。大さん橋ターミナルには約1万8千人の見物客。山下公園にも人垣。 〔 40/43 〕 1980年8月、横浜駅西口。ターミナル駅といえば、ずらり並んだ公衆電話。携帯電話のない時代には欠かせなかった。長電話防止のため、3分で切れる公衆電話もあった。 〔 41/43 〕 2002年9月、川崎市中原区。東急東横・目黒線、JR南武線の武蔵小杉駅(左手前)。中原街道に沿った古くからの住宅地である一方、企業用地も広がり工業都市の趣がある。急速に移転し宅地化された。 〔 42/43 〕 2011年9月、川崎市中原区。わずか10年ほどで高さ150〜200メートルの超高層マンションが林立。2010年にはJR横須賀線、湘南新宿ラインの駅も新設され品川や渋谷、新宿などの主要駅が近くなった。 〔 43/43 〕 2011年9月。ビルに囲まれた神奈川の一大ターミナル、横浜駅(中央)。高架の首都高速が線路をまたぎ、三角形に交わる。線路を挟んで右側が高島屋などの西口、左側がそごう横浜店などの東口で海も近い。

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2015年(平成27年)2月1日付
(神奈川新聞125周年)
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