〔 湘南平 〕 大磯町 2023.3.12 [ 日本山名事典: ] ● メッセージのページへもどる
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#1-1此辺大磯宿の史跡『江戸見附』 〕 宿場の出入口につくられた構造物で、本来は簡易な防御施設として設置されたと考えられている。また、宿場の範囲を示しており、宿場の京側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいた。なお、宿境には傍示杭と呼ばれる木製の標柱が建てられていた。

#2-1大磯八景碑『化粧坂の夜雨』 〕 雨の夜は 静けかりけり 化粧坂 松の雫の 音はかりして
 大磯八景は、明治40年頃、大磯町第5代町長 宮代謙吉が大磯の名所八景を選んで絵葉書を出版したのが始まりである。その後、昭和12年に大磯小学校第2代校長 朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑をそれぞれ八景の位置に建立した。現在は、「小淘綾の晴嵐」を除く「高麗寺の晩鐘」、「花水橋の夕照」、「唐ケ原の落雁」、「化粧坂の夜雨」、「鴫立沢の秋月」、「照ヶ崎の帰帆」、「富士山の暮雪」の7基が残っている。

#3-1此辺大磯宿の史跡(虚空蔵堂)寺領 傍示杭(ほうじぐい) 〕 虚空蔵と熊野権現を祀ったお堂があり(現存)、ここに下馬標が立っていた。大名行列もここで下馬し、東照権現の併祀された高麗寺に最敬礼をして静かに寺領内を通った。高麗寺と大磯宿との境界を示す。高さは約3mであった。

#4-1〔 高麗山 標高 167.3m 高麗(こま)と若光(じゃくこう) 〕 昔から日本と朝鮮との文化交流は深く、相模国(さがみのくに)をはじめ東国七州の高麗人(こまじん)を武蔵国(むさしのくに)に移して高麗郡(こまこうり)をおいたと「続日本記(しょくにほんき)」には書かれています。奈良時代のころ高句麗(こうくり)は唐・新羅(しらぎ)に滅ぼされ、日本に難を逃れた人も多くその中に高句麗王族のひとり高麗若光(こまじゃくこう)もいました。若光は一族をつれて海を渡り大磯に上陸、日本に帰化してこの山のふもとの化粧坂(けわいざか)あたりに住み、この地に大陸の文化をもたらしました。高麗若光と高句麗の人たちが住んでいたことから、この地が高麗と呼ばれるようになりました。[ 環境省・神奈川県 自然環境保全センター自然保護公園部 自然公園課 ]

#5-1八俵山(はっぴょうやま) 標高 160m 〕 八俵山・大堂・東天照の高麗山の三峰のうち、最も西側に位置する峰で、“八俵”は仏教用語の八俵(隅の意味)から転じたと考えられます。古くは毘沙門堂がここに建てられていた、と記録されています。[ 神奈川県 ]
#5-2〔 神奈川県指定天然記念物 大磯高麗山の自然林 昭和47年3月31日指定 〕 大磯丘陵の東端に位置する高麗山(こまやま)は、標高わずか150メートルにすぎないが、相模川の広い沖積平野に接し、特徴的な景観で古くから親しまれている。この南面は、シイやタブを主とした常緑広葉樹で構成される沿海性の自然林におおわれている。山腹斜面は土壌が浅く、アラカシやウラジロガシを多く混生したスダジイ林が発達し、一方、谷部のように土壌が厚くて適湿、富養な立地では、タブノキ・イロハモミジなどが高木層を形成するタブ林が見られる。いずれの林内にも、ネズミモチ・ヤブツバキ・アオキなどの常緑樹が豊富に生育し、また分布北限域となるモクレイシは注目される。県内にわずかに残されたヤブツバキクラス域の自然林としては、林分面積が充分に確保され、自然度も高い良質な森林として貴重であるばかりか、東海道線沿いに見事な常緑広葉樹林が展望できるのも珍しい。学術的な立場からも、郷土の森としても、さらに景観的な意味からも、指定天然記念物として保護するものである。[ 神奈川県教育委員会 ]

#6-1〔 浅間山 標高 181.3m 浅間社(せんげんやしろ)〕 江戸時代、雲をぬいて天高くそびえる富士山を神とした浅間信仰(せんげんしんこう)が広まりました。白い衣装をまとい、口々に「懺悔懺悔(ざんげざんげ)、六根清浄(ろっこんせいじょう)」と唱えながら登る。六根とは眼、耳、鼻、舌、身、意のことで、「六根清浄」が登山の精神であり、富士山は信仰登山のあこがれでした。しかし、富士登山は費用と日数がかかり、女人禁制(にょにんきんせい)でもあったため、浅間社を富士山の見える高台や山頂にまつり、そこにお参りすることにより願いが富士山に通じると、庶民の間にひろまり厚い信仰を集めました。浅間社は木花佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)を主神とし、美しい富士山を桜の花にたとえた名前と伝えられ、浅間社を祀(まつ)った山であることから浅間山と呼ばれるようになりました。[ 環境省・神奈川県 自然環境保全センター自然保護公園部 自然公園課 ]

#7-1〔 曽我十郎(そがじゅうろう)硯水(すずりみず)の池 〕 この池は、鎌倉時代初期の武士、「曽我兄弟の仇討ち」で有名な曽我兄弟の弟、五郎が水を飲もうと地面と強く踏みつけた時に湧きあがった、という伝説が残されています。また、兄、十郎の恋人で街一番の美人として有名であった虎女という女性は平塚の山下で生まれ、大磯宿で遊女をしていました。十郎が虎女に想いを綴った恋文を出すときも、この水を筆の硯水として使った、と言われています。十郎は仇討ちを遂げて亡くなりますが、虎女は十郎のため、山下の地で菩薩地蔵を安置して、その一生を十郎の供養に費やしたと言われています。
[ 平塚市みどり公園・水辺課 ]